姉妹都市交流事業で、那須塩原市へ
用水さえ確保できれば有望な土地であることは明らかで、昔から何回も開発の計画が立てられましたが、飲水にすら事欠くような状況で、全て断念せざるを得ませんでした。ようやく、明治13年から那珂川から水を引く工事が着手され、明治18年に幹線水路が完成します。これにより那須野ヶ原開発の基礎が確立し、東北本線の開通もあり、開拓は本格的に進んでいきました。
開拓は、栃木県の有力地主による那須開拓社、鹿児島士族による肇耕社(ちょうこうしゃ)、さらに明治の元勲、西郷従道(さいごうじゅうどう)、大山巌(おおやまいわお)、山県有朋(やまがたありとも)らによって行われました。
第二次世界大戦後、那須野ヶ原には、まだ未墾地が多く残っていたため、多数の開拓団が入植し、開発はさらに進みました。しかし、用水の不足が障害となって開墾が制限されたため、新規に水を確保しての開発が熱望されます。昭和42年から国営事業が実施されると、この事業で、深山ダムの他2つの調整池が築造され、既存の農地に用水を補給するとともに、新たな開拓が可能となりました。また、深山ダムの水は、地域の水道用水としても利用されているほか、水力発電も行われており、地域開発に大きく貢献しています。
那須疎水の特徴として、水路開通後、那須疎水組合が組織され、我が国では珍しい「水量割制」が採用されていることが挙げられます。各開墾地の反別に応じ、引水権量が決定され、この量に基づいて水路の維持管理に要する費用を負担するとともに、引水権量内の開田は自由となっています。(関東地方農政局HPより)
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